【命日】今日は忘れてはいけない日。【4月19日】
こんばんは、もち太郎です。
4月も半ばを過ぎました。新社会人の皆様は、初めての職場の雰囲気や仕事の仕方が少しずつ見えてきたでしょうか。
研修で早くも心が折れそうになっている方もいるかもしれません。
僕は大学2年の今日、精神的にショックを受ける出来事があり、暫く大学生活に身が入らない時期がありました。
今日はそのことについてお話ししたいと思います。
※例によって副業全く関係ありません。ご容赦ください。
今日は祖母の命日
今日、4月19日は祖母の命日なのです。
祖母は僕が大学2年生の時、脳梗塞で亡くなりました。
僕が高校1年生の時に倒れ、認知症を発症。以来殆ど寝たきりの生活になりました。
偶に起き上がることは出来たものの、寝室と居間の往復しか出来ませんでした。
大学進学を機に上京し、東京で一人暮らしを始めた僕に、祖母は「一人暮らしなんか無理だから、早く帰って来い」と言い続けました。時々実家に帰って顔を見せる度にそんな話になり、それをはぐらかしながら1年が経過。
そして一人暮らしを始めた2年目の春、祖母は亡くなったのです。
当日の朝、母からの電話が入った時に、何となく嫌な予感がしたのを覚えています。
普段そんな早朝に電話があることなどなかったので、どう考えても何か良からぬことがことがあったに違いないと。
恐る恐る電話に出ると、祖母が亡くなったと聞かされました。
すぐに家に帰るように言われた僕は大学に連絡を入れ、その日の講義を全て欠席することになりました。
慌てて実家に帰ると、広い座敷に横たわった祖母と、その周りに家族や親類を含め、何人もの人々が佇んでいます。
生前、大柄で肥満体型だった祖母の面影はすっかりなくなり、げっそりと痩せ細った姿。小柄になった亡骸が横たわっていました。
それを見た瞬間、もう祖母はいないと漸く実感し、席を外して泣きました。
5歳の頃、祖父を見送った時はまだ家族の死について実感が湧かなかったため、涙が出ませんでした。
しかし、今回が初めて体験する「家族の死」のつらさでした。
葬儀の席でもずっと泣きっぱなしでした。
厳しさと優しさと
僕が思い浮かべる”一般的な祖母のイメージ”は、いつもニコニコして孫に甘く、何をしても怒らない、というものです。
恐らくテレビドラマの『大好き五つ子』の影響だと思います。
あのドラマに出てくる両家の祖母は孫に甘いのです。
また、『サザエさん』の舟も孫のタラオには比較的甘いです。
そんな訳で、僕は「きっと余所の家のおばあちゃんは孫に優しいのだろうな」と思っていました。
しかし我が家の祖母は違います。
元小学校教師の祖母は規律や成績に厳しく、何か粗相があればすぐに叱られました。
毎学期末、成績表を祖母に見せて成績が悪ければ正座してお説教。
夏休みには毎日日記をつけさせられました。
旅行などに行けば、帰ってきたその日のうちに感想文を書かされました。
夏休み・冬休み・春休みの午前中は祖母の監視のもとお勉強です。
その他色々、祖母の厳しい躾はありました。
でも、厳しいばかりではなく、時には優しい一面もありました。
お昼ご飯を外食したり、こっそりお小遣いをくれたり。
昼間真面目に勉強していれば、外食できる可能性が高いので、僕も弟も文句を言わずに勉強した覚えがあります。
機嫌に左右されることも多かったですが、厳しい反面、甘いこともありました。
日課はお散歩
小さい頃からの祖母との日課は、近所を散歩することでした。
散歩の道すがら、近所の人と立ち話する祖母。
近所の高齢者の多くは祖母の教え子で、道を歩くだけで声をかけられるくらい有名人でした。
散歩の途中で休憩し、家から持ってきたお菓子を食べるのも密かな楽しみ。
一時期、自転車の荷台に括り付けるゴム紐を持って、祖母と弟と三人で散歩するのがマイブームでした。
教職を退いてからも”先生”であり続けた
僕が生まれた時には既に教職を退いた祖母ですが、ある分野に於いてはずっと先生と呼ばれ続けていました。
その分野とは、「生け花」。
祖母は華道家としての顔も持っており、自宅で華道教室を開いていました。
僕も中高年の生徒達に混じって花を生けたことがあります。
華道の展覧会に同行すれば、県内各地の華道家達から声がかかり、何度も華展に作品を出展する。教師としての顔よりも、僕には華道家としての顔の方が強烈に印象に残っています。
また、華道の時に使う”雅号”を持っており、僕にも雅号を授けてくれました。
祖母のコネでコンクールに出展する枠に無理矢理僕の作品を捻じ込んで貰ったこともありました。
雅号を賜りながら、その道に進むことはなかったものの、僕は今でも大晦日に花を活けています。
祖母に影響された趣味
僕が祖母に影響された趣味に、2時間ドラマ鑑賞があります。
祖母はお昼過ぎになるとテレビの前に陣取って2時間ドラマを観るのが趣味でした。
僕もその時間には居間で過ごしていたので、必然的に同じドラマを観ることになります。
祖母は話の筋を読むのが上手く、不思議と犯人を良く当てました。
また、「まだ1時間しか経ってないからあと一人は殺されるな」などと物騒な予想もよく的中させていました。
そんな時間を過ごすうちに、僕も2時間ドラマを観るのが趣味になっていました。
上京してからも気に入った番組や観たいシリーズ物は録画して観ていましたし、実家に戻った今も時々観ています。
祖母の死を契機に変わったこと
僕が祖母の死で一番変わったと思うのは、我が家を取り巻く人間関係です。
当然と言えば当然ですが、晩年の祖母を出迎えてくれたデイサービスのスタッフさん達とは葬儀以来関係が途絶えました。
いつの頃からか、生け花教室も終わってしまいました。
祖母に会いに来ていた親類とも疎遠になりました。
我が家の人間関係は、祖母ありきだったのだと気づかされました。
もう殆ど、我が家を訪れる客人はいません。逆に、こちらからよその家へ出向くこともなくなりました。
どうしようもないことは分かっていますが、それでも物悲しさは否めません。
祖母のお蔭で身に付いたこと
僕は幼少の頃からしつこい程作文や日記を書かされてきたお蔭で、文章を書くことに抵抗がなくなりました。
子供の時分は嫌で嫌でたまらなかったのですが、「僕の一番の武器は文章を書くこと」と言えるくらいには自信がつきました。
中学校の頃は感想文コンクールで賞を獲ったこともあるし、高校でも現代文の成績は良かったし、大学では小論文やレポートの評価は常に良かったです。
祖母に鍛えられたこの文章力だけは、絶対の自信があります。
この唯一の長所を活かして、人生を切り開いていきます。
8年経っても…
祖母の死から8年経った今でも、ちょくちょくお墓参りに行っています。
仕事のことやまりえさんのことを報告しています。
今年は色んな意味で勝負の年になりそうですが、ばあちゃん、見守ってくれな。